「自己との対峙」
気づいたら、2023年も終わりに近づいていた。別に一年が終わるからといってそれで自分の何かが変わってしまうということなどあるはずもなく、ただ一年が終わるという、ただそれだけのことなのだが、一年の終わりは一つの節目で、考え、文章を書き、誰かと会って話すといったことを積み重ねていくうち、気づいたら自分が変わっていたことを振り返るきっかけにはなりうる。
じつは今年の2月、川内倫子さんの滋賀での展示の内覧会で、奈良美智さんにばったり会った。もちろん初対面である。ぼんやりと、川内さんが滋賀で撮った写真を眺めていたら、川内さんが「奈良さんだ」といって僕を引き合わせてくれたのだが、「奈良さん」と普通に言うから一体どの奈良さんだろうと適当なことを考えふと見たらTシャツを着て帽子を被った人がいて、どう見ても「奈良美智」にしか見えない人が目の前にいた。初対面なのに「奈良さんは普段何をしているのですか?絵を描く以外に」など不躾なことを聞いたら、「最近は陶芸とか、あとは音楽もやっているよ」となかなか適当な感じで話してくれて、ずいぶんといい意味でゆるい人だなあとか思った。エレナ・トゥタッチコワさんのこともよく知っているそうで、なんか最近親しくなった人とつながっているのか、となんか不思議な気持ちの状態にいたのだが、「じゃあ帰る」と言って本当に帰ってしまった。
あの「人となり」は、どっからきたのだろうか?と、とても気になっていて、そうしたら最近、なかなか立ち入ったインタヴュー記事があって、ますます奈良美智氏の人間性に興味を持つようになって、だから『NARA LIFE』といった著作や、『奈良美智 終わらないものがたり』(イェワン・クーン)のような研究書を読んでいる。
そこで印象的だったのは、奈良さんが常に、自己との対峙を大切にしているということだ。たとえば、物事には何かしらの流行があるが、その流行の波が衰退するのはある種の必然で、重要なのはその衰退の状況においてそれに流されずむしろ前向きに進むには「自分の奥深くを今再び見なければいけない」ということである。「オーディエンスが求めるものを形作るのではなく、常に作品自体の志向性がオーディエンスを作っていく」こと。さらにいうと、その自己と対峙するという姿勢は、ドイツで日本食レストランでバイトしつつ「発表するあてもなく、しかし、発表することが最終目的ではなく、ただ描き続けること自体が生きている目的だった」頃にすでに確立されていたそうで、そのかぎりで、奈良さんにとっては、この若かったころの自分に立ち戻ることが、いつも大切なのだろう。
私はとりわけここ一年、建築や人類学の大学院生と一緒に読書会をしてきた。読書会といっても、やっていることの半分は雑談で、最近の院生の考えを聞くとか、その人たちが置かれた状況を教えてもらうとかで、それのおかげで、自分が院生だったころ何をしていたか、何を考えていたかを思い出し、それをそのまま話すと言ったことをしてきた。そして、それはまた、自分にとっての学び直しでもあった。英語で自分の思考を書き、文章にし、そして発表するということをここ数年実践しているが、それはある意味、何者でもない人間が新しく何かを始めたことでもあって、それゆえにかなり失敗を重ねた数年でもあったが、失敗を重ねるうちに次第に何が大切かがわかってきた数年でもあり、そこでようやく、本当に大切なのは「自己との対峙」で、しかもこれが一番難しいということもわかってきた。
なので、2024年は、「自己との対峙」をテーマにしようかと思う。
三木清の「構想力」について、ちょっとだけ思いついたこと
三木清の「構想力の論理」が岩波文庫で出ていたので少しだけ読んだ。なぜかというと、この数ヶ月ほど、自分より20ほど若い人たちと交流する機会があって、それで三木清がよく読まれているというので、読んでみた。三木清はたぶん「哲学入門」や「人生論ノート」をそれこそ高校生か予備校生の時に読んで、講談社学芸文庫で出ていた教養論のアンソロジーを五年ほど前に読んで、それ以来読んでいなかった。西田や西谷ほどの深みはないなあとか思って関心を向けていなかったのだが、90年代生まれ世代の若手と話していたら、技術論や構想力を考え直すことの大切さが話題に上り、さらにYuk Huiもそこに関心むけているという話になって、それで読んでみた。
冒頭で、「ロゴス」と「パトス」の結合という話がでてくる。論理的なものと非論理的なもの、それが分裂し、後者が前者を圧倒するということなのだが、その状況において、「結合」はいかに可能か、と問うている。自分の考えでは、論理的なものと非論理的なものが分裂したまま併存し、前者は空論と化し後者は狂気と化するというのはいかにも近代日本の宿痾という感じもあり、それは今もなお克服されざる課題で、そこに技術についての考察を入れ込むことで調停というか融和を試みるというのはとても重要に思った。ただ、三木清がさらにすごいのは、その二つを対立物の弁証法的統一といった形式論理で処理することの虚しさもわかっていて、行為すること=ものをつくり、世界を実際に変えていくことの大切さに着目し、のみならず、「我々がそれによって物そのものに触れる感覚」からの行為と思考の大切さに着目している、ということである。
しかも三木は、英仏独語のすべてにおいて堪能だったようで、当時まだ未邦訳の文献にアクセスし、それこそヴェブレンの議論やサルトルやマリノウスキーやソレル、ジンメルなど、大量に読んでいたみたいだ。インターネットもない時代に、よくぞここまで調べたものだと感心するよりほかにない。
さらに、三木清が「構想力の論理」を書き始めたのは、1937年、つまりは彼が40のときで、死んだのは1945年、つまりは48である。普通に生きていたら、1960年のときは63歳。1970年には73歳。1989年まで生きたとしても92歳であった。三木清は昭和の終わりをいかにして感じただろうか。
「文章を書くこと」について
一ヶ月ほど前、この文章を目にした。
phaの文章は、ブログなどで前にときどき読んでいた。気づいたら売れっ子になっていて、著作も出ていて、すごいなあとか思っていた。で、これを読んでみて、「なるほど」と思った。phaは、文章書くことができなくなった理由として、書くことがなくなったとか、エネルギーがなくなったとか、いろいろ挙げているが、個人的によくわかるのは、ネットの雰囲気が自分に合わなくなった、ということである。自分はネットじゃなく、本とか書いているので、どちらかといえば日本語で書かれた紙媒体の世界といったほうがよいのだろうが、ここで書くことが、何か辛くなってきた。2020年、「人間以後の哲学」という本を出して、そう感じた。ただ、この前から、2016年あたりから、英語で書くということの面白さというか、英語で書くと小さくはあっても思いもよらぬ反応がやってくることのおもしろさに気づき、それで自分を二重化し、日本語で思考するが英語でも書くという謎の自己形成を試みるうち、次第に、日本語で書くことに何かやりがいというか、そういうのを感じることが難しくなってきた。
ただ、川内倫子さんとずっとやりとりを続けていて、彼女の写真に自分がエッセーで応答するということを行なっているのだが、これに関しては、やりがいを感じる。この応答の成果は、いずれ書籍になって刊行されるだろう。2024年を目標にしている。
とはいえ、大学での講義などは日本語でやっているし、そのための準備も日本語で書いている。何か講義録みたいなのをいずれ出そうとは考えている。
ここまで書いて、さっきある人に、「篠原氏のメールは毒々しいですね」と言われて、それでなんでこうなんだろうと思い返し、こう返信したのを思い出した。
「毒」といえば、今にして思うと、山形浩生と戦ったのがいい経験になったと思います。
最初、こういうことを書かれて、そのときは無視したのですが、
哲学談義まみれで将来展望を何一つ出せずに終わる本。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」
またこんなこと書かれたので頭きてブログで反論しました。そうしたら反論の応酬になって、これはこれで面白かったです。僕の反論はブログごと消しました。
篠原『全-生活論』:全体性が重要といいつつ全体性って何かも言えず、<母性>にすり寄る情けない本。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」
こういうのに対して応酬するというのが10年前のネットではありえた。まだ自分も元気だったのだろうね。
翻訳を終えて
チャクラバルティの翻訳を終えた。訳者後書きでも書きましたが、チャクラバルティの論文からは多くを学ばせてもらったし、そもそも、気候とかnon-humanといったこととの関連で人間の条件を考え直すというアイデア自体がチャクラバルティのものなので、自分自身の著作自体、そこにかなりを負っている。だから、今回の翻訳は、チャクラバルティからの知的恩恵に対する、自分なりの恩返しというか、そういうことでもあります。本当は彼の主著(Climate of history in the planetary age)を訳すべきなのでしょうが、さすがに自分にはそんな余力も気力もないのでできません。
自分が何かを日本語に翻訳することはもうないでしょう。これからは日本語を英語にするとか、自分で英語で書くとか、そちらに専念します。
チャクラバルティの翻訳のために書いた「訳者あとがき」の一部
また、habitabilityの訳語をどうするかいつも悩んでいたのだが、2023年10月6日に東京大学大学院人文社会系研究科で開催された研究会「サステイナビリティと人文知」で私が報告したときいただいたいくつかのコメントがきっかけになって、「生存可能性」という訳語に落ち着いたことをここに記しておきたい。主催者の堀江宗正氏、さらに研究会中に多くのコメントをしてくれた鎌田東二氏に感謝する。鎌田氏は、チャクラバルティの思考の「予言性」に敏感に反応し、比叡山が荒廃し、白川通には白い砂塵が飛び交っていることを指摘しつつ、惑星的な規模での「生存不可能性」が身近なところで現実のものとなりつつあることを述べ、さらに、チャクラバルティの著作を安部公房の『第四間氷期』(1959年)や『方舟さくら丸』(1984年)と共鳴しうるものというだけでなく、安部公房の再解釈を可能にするものと捉えたのであったが、たしかに、予言性という観点を定めるなら、未来において本書がいかにして読まれるかということも気になるところではある。安部公房が著作を書いていたまさにその期間中に生まれ幼少期を過ごした私が訳した本書を2010年代生まれ以降の人たちはいかにして読むのだろうか。
訳者あとがきというのを書いたのだが、まあここでこういうことを書かなくてもいいかもしれないと思った。ただ、完全に消してしまうのも申し訳ないので、ブログに書くことにした。何かまた日本語で書く機会があればどこかで書いてみたいものだが、最近は機会が失せたので、そうならないかもしれない。habitabitilityに関して英語で書くことがあれば、それとの関連で安部公房を論じることはできるかもしれないが、それはかなり大変そうではある。
ドイツで考えていた
ベルリンはいいですよ。僕が今度話すスペース「diffrakt」の人とさっきまで話していましたが、パレスチナ・イスラエルをめぐる論争や気候危機をめぐる論争が百花繚乱だそうで、でもまあ、インディペンデントな文化スペースも普通に多い。
これは、ベルリン滞在中、ある人に送ったメールの一部。
最初ベルリンに来たのは2022年5月で、その次に来たのは同年の9月下旬だった。今回は三度目の滞在となる。今回は、まずはチュービンゲン大学の「intercultural philosophy」というテーマを掲げる研究グループとの関連で講義を行った。
部屋には10人ほどの参加者だったが、ズームには30人ほどいたらしいので、あわせて50人くらいだろうか。話したのは、「西田哲学における奥底をめぐる考察」というテーマである。主催者のNielsさんはじめ、反応がよかった。もちろん英語で書いた原稿を読んだわけだが、日本語ではもはや書くことができなくなりつつある自分にとって、英語で書くということは、生きるための手筈というか、命綱になりつつある。2016年、ティモシーさんと会って話していたとき、ある瞬間、「この人に自分の考えを伝えないと、これまで自分のやってきたことには何の意味もないのかもしれない」と思うようになって、つまり、一方的に考えを受け取るだけの受動的な立場に甘んじているのが楽しくないと感じたのだが、それが自分にとって、英語で書くということの発端の一つになっている。いや違うか、その前に、ベネチアビエンナーレの建築展に関わらせていただくという機会があって、それも大きかったか?それ以来、英語で書くということが、自分の一部になっている。そんな流暢には話せないが、それでも気づいたら話せるようになっていた。留学経験なしでも英語は書ける。
一時間話して一時間以上の質疑応答というなかなかの状況だったが楽しかった。イラン出身の研究者もいて、彼の話を聞くのも楽しかった。参加者との打ち上げも楽しかった。異国の研究者との会話が楽しい。こうやって国外に人間関係を広げることがいずれ何かにつながるだろうと期待して、今は辛抱するしかない。
ベルリンでは、今からになるが、Diffraktというスペースでトークイベントを行う。これも独立系のスペースで、もともとはMerveという小規模出版社のオフィスだったところを使って運営しているところだそうだが、来たことのある人の名前をみるとたとえばLewis Gordonというアフリカ哲学の重要人物がいたり、僕がやったあとにはMarquis Bey という若手の書き手(彼はNahum Chandlerのpara-ontologyについて本を書いている)がイベントに出るそうで、その意味では、かなり独自の重要な知的拠点になっているみたいだ。このアングラでインティペンデントな感じがとても懐かしくて、だから楽しみである。