矛盾的自己同一

はずれたところからの雑感

「文章を書くこと」について

一ヶ月ほど前、この文章を目にした。

最近文章が書けなくなった - phaの日記

phaの文章は、ブログなどで前にときどき読んでいた。気づいたら売れっ子になっていて、著作も出ていて、すごいなあとか思っていた。で、これを読んでみて、「なるほど」と思った。phaは、文章書くことができなくなった理由として、書くことがなくなったとか、エネルギーがなくなったとか、いろいろ挙げているが、個人的によくわかるのは、ネットの雰囲気が自分に合わなくなった、ということである。自分はネットじゃなく、本とか書いているので、どちらかといえば日本語で書かれた紙媒体の世界といったほうがよいのだろうが、ここで書くことが、何か辛くなってきた。2020年、「人間以後の哲学」という本を出して、そう感じた。ただ、この前から、2016年あたりから、英語で書くということの面白さというか、英語で書くと小さくはあっても思いもよらぬ反応がやってくることのおもしろさに気づき、それで自分を二重化し、日本語で思考するが英語でも書くという謎の自己形成を試みるうち、次第に、日本語で書くことに何かやりがいというか、そういうのを感じることが難しくなってきた。

ただ、川内倫子さんとずっとやりとりを続けていて、彼女の写真に自分がエッセーで応答するということを行なっているのだが、これに関しては、やりがいを感じる。この応答の成果は、いずれ書籍になって刊行されるだろう。2024年を目標にしている。

とはいえ、大学での講義などは日本語でやっているし、そのための準備も日本語で書いている。何か講義録みたいなのをいずれ出そうとは考えている。

 

ここまで書いて、さっきある人に、「篠原氏のメールは毒々しいですね」と言われて、それでなんでこうなんだろうと思い返し、こう返信したのを思い出した。

 

「毒」といえば、今にして思うと、山形浩生と戦ったのがいい経験になったと思います。

最初、こういうことを書かれて、そのときは無視したのですが、

哲学談義まみれで将来展望を何一つ出せずに終わる本。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

またこんなこと書かれたので頭きてブログで反論しました。そうしたら反論の応酬になって、これはこれで面白かったです。僕の反論はブログごと消しました。

篠原『全-生活論』:全体性が重要といいつつ全体性って何かも言えず、<母性>にすり寄る情けない本。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

 

こういうのに対して応酬するというのが10年前のネットではありえた。まだ自分も元気だったのだろうね。